尾崎豊の『盗んだバイクで走り出す』を聞くとバイク盗んだ非常識な行為が気になりその先が入ってこないので聞き直してみた

『盗んだバイクで走り出す 行く先も解らぬまま 暗い夜の帳りの中へ』

印象的な歌詞である。
この歌詞は尾崎豊の「15の夜」という曲に出てくる一節だ。非常に有名な曲のため聞いたことがある人も多いだろう。

もちろん私もこの曲を知っている。自分が生まれる十年以上前の曲だが、小さい頃から時折テレビで流れていたのでそれを耳にしていた。しかし、一番目立つサビの歌詞が全然共感できず今に至っていた。

『盗んだバイクで走り出す 行く先も解らぬまま 暗い夜の帳りの中へ』
後半の気持ちはわかるが、まず「バイク盗むのありえないな」と思ってしまう
バイク盗むのは明らかに非常識な行為である。しかも、バイク盗られた側の気持ちになって考えると可哀想に思えてしまう。
バイクを盗んだ印象が強すぎて、次の歌詞が入ってこないのである。


もちろん、曲は創作物である。したがって「盗んだバイク」が比喩の可能性もあるし、自分が生まれ育った時代とは時代背景も大きく異なるので多分に考察の余地はある。
しかし、そこで長い間思考が止まっていた。この曲に思い入れがある訳でもないし、尾崎豊さんもよく知らないし、大好きな曲でもあるという訳ではなかったからだ。

この曲に対して、聞き直してみた。


Aメロ

落書きの教科書と外ばかり見ている俺

授業中は退屈な時間が多い。ただ座って先生の話を聞く、バリバリの閉塞感の象徴みたいな場所である。そんな中、自分が自由に創作ができる唯一の場所は教科書やノートの隙間である。中学校あるあるで、これは非常に歌詞の内容に共感できる。
また、「外ばかり見ている」ではなく「外ばかり見ている俺」であることにも注目したい。「外ばかり見ている俺」は自分を客観的に捉えた視点で記述されている。 この「俺」はその後の歌詞に続くように、何かやってやりたいけど気軽にはできない環境の中でなにかやってやろう、と心では思っているのである。

超高層ビルの上の空 届かない夢を見ている
やりばのない気持の扉破りたい
校舎の裏 煙草ふかして見つかれば逃げ場もない

超高層ビルの上の空」とは、超高層ビルよりもっとずっと高い、手が届かないところを意味してる。そのくらい遠い場所にある届かない夢を見ている(が、到底叶いっこないということなのだろう)。

主人公に 「やりばのない気持」は溜まっているけど、簡単に吐き出せたり解消できるものではない。この時期は自分の感情を言語化するのも容易くはない。だからこそ、扉のようなわざわざ開けたり鍵をかけたりするような空間を作るまでになってしまったのだろう。

「煙草ふかして見つかれば」とは、学校の裏でタバコを吸ってもし先生に見つかれば、親に連絡がいって学校からも親からもとんでもなく叱られるであろう。
でも、タバコを吸うようなどこか悪っぽくて大人な行動をとりたいんだ、と読み取れる。

しゃがんでかたまり 背を向けながら
心のひとつも解りあえない 大人達をにらむ
そして 仲間達は今夜 家出の計画をたてる
とにかくもう 学校や家には帰りたくない

「しゃがんでかたまり 背を向けながら」はキングダムの伍(ご)で背中合わせになっているような戦法を想像した。 五人一組で背中合わせになりながら戦うことで、どの方向から攻められても攻めと守りが両立できる戦法のことだ。
しかし、しゃがんでいる様子から攻撃態勢ではないようだ。ただみんなでかたまって大人から防御している状態なのかもしれない。

大人たちはなんもわかっちゃくれない。でもかといって、殴る蹴るをしたいような感情とは違う。わからない、けど自分のこの気持をどこかに放出させようと、せめてもの反抗で大人達をにらんだ。

「仲間達は今夜 家出の計画をたてる」も良い。「今夜」とつくことで突発的なことは言うまでもなく、計画性のなさを表している
もう家に帰りたくなさレベルは「とにかく」である。兎にも角にも、を使うときは相当な時である。

自分の存在が何なのかさえ解らず震えてる 15の夜

興味深い歌詞である。自分の存在が何なのかをわかってる人は、世の中にどのくらいいるであろうか。
大人になっても自分の存在意義を考える人はたくさんいるはずである。
そんな中、主人公は「自分の存在が何なのかさえ」と、あたかも自分の存在が何であるかがわかっていることが当然だと考えているから「さえ」を使うのである。

また、Aメロ一行目では主人公は自分のことを「外ばかり見ている俺」といっていたがこの文章では「俺」と一人称が変わっている。「自分の存在が何なのかさえ解らず震えてる」は、客観的視点ではなく自分の状態を表した言葉だ。震えてるは細かく揺れ動く様であり、どこか弱々しさも感じさせる。

サビ

盗んだバイクで走り出す 行く先も解らぬまま 暗い夜の帳りの中へ

ブログの冒頭に出した問題の文章である。
何度も聞いていくうちに「盗んだバイク」との表現は、かっこつけた比喩表現の一種であるのではないかと想像した。いわゆる学生時代特有の厨二病表現的近いもののような。
「盗んだ」も「バイク」も先述したタバコのように、どこか悪っぽくてかっこよく見える側面がある。例えば「借りパクした自転車」や「盗んだけど後できちんと謝罪して返却しました」だと全然悪っぽくない。

そんな悪っぽくて、ほんの微塵の俺かっこいい的な自惚れを灯しながら、ドキドキしながら盗んだバイクで走り出す。

「行く先も解らぬまま」、これはAメロを読んだら当然である。今夜突発的に計画を立てたのだから綿密な逃走スケジュールなんてのは欠片もない。もし計画を立てたとしても、どこか身寄りのある行く宛はないのではないだろうか。
そして、ただでさえ「夜の帳=真っ暗で何も見えない」のに、「暗い夜の帳りの中」なので光がない真っ暗闇の中をバイクで走っているのであろう。

それはつまり、車道用の街灯だけが灯る暗い物静かな夜道である。

誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 15の夜

誰とも関わりたくない、ということではないのだ。誰にも縛られたくないのだ。

「逃げ込んだこの夜に 」の表現について、Aメロとの違いが見える。Aメロでは「とにかくもう 学校や家には帰りたくない」と今後ずっと戻りたくないように見える文章だった。しかし、いざバイクで駆け出してみると本音は少しの間だけでいいからこの状況から逃げたいという気持ちが表現されているように見える。

「自由になれた気がした」も自由になれたわけたわけではない。一時だけ自由を味わったかのような気分であったのだろう。

おわりに

「15の夜」は1983年にリリースされた尾崎豊さんのデビューシングルである。

『盗んだバイクで走り出す 行く先も解らぬまま 暗い夜の帳りの中へ』 この一文に私は今までずっと引っかかっていた。その行為の非常識さが気にかかり、他の歌詞が入ってこなかったのである。

今回改めて聞き直して歌詞を読んでみて、ようやく自分の中にすとん、と理解を落とすことができた
個人で勝手に解釈したものなので間違いもあるであろうが、「大人への反抗心をテーマに、どうにもできない学生時代の気持ち」を色濃く表現された歌詞なのだろうと思った。